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霞(かすみ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦〔#達昭和11年6月p.12『達第八十號 昭和十一年度達第七號中浦賀船渠株式會社ニテ建造ノ驅逐艦朝雲 アサグモヲ驅逐艦霞 カスミニ改ム 昭和十一年六月十九日 海軍大臣 永野修身』〕。一等駆逐艦朝潮型の9番艦である〔#艦艇類別等級表(昭和16年6月30日)p.4『艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|朝潮型|朝潮、大潮、満潮、荒潮、朝雲、山雲、夏雲、峯雲、霞、霰』〕。この名を持つ帝国海軍の艦船としては暁型駆逐艦「霞」に続いて2隻目。 == 艦歴 == === 太平洋戦争まで === 1935年(昭和10年)2月に軍令部が制作した昭和16年度戦時編制案に、朝潮型駆逐艦〔#昭和16年度戦時編制案p.6『昭和十六年度(一九四一年)帝國海軍戰時編制(案)昭和十年二月十二日外戰部隊|GF|2F|2sd|新駆|( 1936年(昭和11年)1月20日、日本海軍(海軍大臣大角岑生大将)は、浦賀船渠で建造予定の駆逐艦1隻を「朝雲(アサグモ)」と命名した〔#達昭和11年1月p.9『達第七號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦一隻ニ左ノ通命名ス 昭和十一年一月十日 海軍大臣男爵 大角岑生| 6月19日、日本海軍(海軍大臣永野修身大将)は「朝雲」を「霞」と改名した〔。 10月22日、日本海軍は改めて神戸川崎造船所で建造する朝潮型5番艦を「朝雲」、藤永田造船所で建造予定の6番艦を「山雲」と命名している〔#達昭和11年10月p.11『達第百六十四號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十一年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦二隻工作艦一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十一年十月二十二日 海軍大臣 永野修身|株式會社川崎造船所ニ於テ建造 驅逐艦 朝雲(アサグモ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 山雲(ヤマグモ)|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 工作艦 明石(アカシ)』〕。 「霞」は浦賀船渠で1936年(昭和11年)12月1日に起工〔#艦船要目公表範囲(昭和16年6月30日)p.20『霞|一等駆逐艦|(艦要目略)|浦賀船渠會社|11-12-1|12-11-18|14-6-28|(艦装備略)』〕。 1937年(昭和12年)11月18日に進水〔〔『○進水 軍艦千代田十一月十九日呉海軍工廠ニ於テ進水セリ/驅逐艦霞十一月十八日浦賀船渠株式會社ニ於テ進水セリ』〕。 1938年(昭和13年)6月28日、浦賀船渠で陽炎型駆逐艦2番艦「不知火」が進水〔『○進水 驅逐艦不知火六月二十八日浦賀船渠株式會社ニ於テ進水セリ/敷設艇白神六月二十五日株式會社石川島造船所ニ於テ進水セリ/特務艦明石六月二十九日佐世保海軍工廠ニ於テ進水セリ』〕。浦賀船渠は「霞」と「不知火」の建造を並行して進めることになった。 12月15日、日本海軍は神風型駆逐艦「松風」や吹雪型駆逐艦「朧」艦長等を歴任した白浜政七中佐を霞艤装員長に任命。浦賀船渠工場内に霞艤装員事務所を設置する〔『○艤装員事務所設置 驅逐艦霞艤装員事務所ヲ浦賀船渠株式會社工場内ニ設置シ十二月十五日ヨリ事務ヲ開始セリ』〕。 1939年(昭和14年)4月15日、「霞」より遅れて建造が始まった同型艦「霰(アラレ)」が舞鶴海軍工廠で竣工(進水も霞より2日早い)〔#艦船要目公表範囲(昭和16年6月30日)p.20『霰|一等駆逐艦|(艦要目略)|舞鶴工廠|12-3-5|12-11-16|14-4-15|(艦装備略)』〕。6月下旬、霞艤装員事務所を撤去〔『海軍公報(部内限)目録(七月分)四|三二四九|(略)霞艤装員事務所撤去』〕。 「霞」は6月28日に竣工した〔。白浜艤装員長も制式に霞初代駆逐艦長となる。水雷長は平山敏夫大尉〔(後日、平山は駆逐艦「波風」艦長、睦月型駆逐艦6番艦「水無月」艦長、夕雲型駆逐艦17番艦「早霜」艦長、秋月型駆逐艦3番艦「涼月」艦長等を歴任)。 「霞」の竣工と共に、日本海軍は第18駆逐隊を編制した〔#陽炎型(2014)122頁『第十八駆逐隊(陽炎・不知火)』〕。当事の日本海軍は旧式化した川内型軽巡洋艦(神通、那珂)を睦月型駆逐艦や吹雪型駆逐艦の水雷戦隊旗艦に転用し、第一水雷戦隊・第二水雷戦隊・第三水雷戦隊・第四水雷戦隊を阿賀野型軽巡洋艦・陽炎型駆逐艦・夕雲型駆逐艦を主力として再編する計画を立てている〔#昭和19年度戦時編制案pp.4-6『昭和十九年度帝國海軍戦時編制案(GF)軍令部第一課』〕。第18駆逐隊(霞、霰)は第三水雷戦隊配備予定、陽炎型3隻(陽炎、不知火、野分)は第二水雷戦隊配備予定である〔。 7月10日、第18駆逐隊司令として久宗米次郎大佐が着任。本艦は一時18駆司令駆逐艦となるも、9月2日より「霰」に変更された〔『○司令驅逐艦變更 第十八驅逐隊司令ハ九月二日司令驅逐艦ヲ霞ヨリ霰ニ變更セリ』〕。 同年11月6日、陽炎型1番艦「陽炎」が竣工し、第18駆逐隊(霞、霰)に編入される。 11月1日、平山(霞水雷長)は第四防備隊附となり、後任の霞水雷長は吹雪型駆逐艦「朝霧」水雷長橋口百治中尉に決まる。(平山は少佐進級後、翌年1月15日附で上海港湾部部員、10月より「波風」駆逐艦長〔)。 11月15日、白浜(霞艦長)は吹雪型「狭霧」駆逐艦長への転任を命じられる(後日、白浜は陽炎型12番艦「磯風」駆逐艦長〔、第27駆逐隊司令等を歴任。白露型駆逐艦5番艦「春雨」沈没時に戦死)。それまで狭霧艦長だった磯久研磨中佐が、後任の霞駆逐艦長となる〔。 同日附で、第18駆逐隊は第二艦隊・第二水雷戦隊に編入された〔。同時に第二水雷戦隊司令官は後藤英次少将から五藤存知少将に交代。第二水雷戦隊旗艦も川内型軽巡洋艦3番艦「那珂」から川内型軽巡2番艦「神通」に変更される〔『○将旗移揚 第二水雷戰隊司令官ハ十一月十五日将旗ヲ那珂ヨリ神通ニ移揚セリ』〕。 また久宗大佐(18駆司令)も川内型軽巡1番艦「川内」艦長へ転任。新司令として佐藤寅治郎大佐が着任した〔。 12月5日、伊崎俊二大佐(重巡洋艦「最上」艦長、軽巡「神通」艦長)は両艦艦長兼務を解かれ、特務艦「知床」特務艦長木村昌福大佐が神通艦長に任命される(後日、伊崎は第二水雷戦隊司令官としてコロンバンガラ島沖海戦における「神通」沈没時に戦死)。 12月20日、陽炎型2番艦「不知火」が竣工して第18駆逐隊に編入され、同隊は定数4隻(霞、霰、陽炎、不知火)を揃えた〔。 1940年(昭和15年)10月15日、木村昌福(神通艦長)は重巡洋艦「鈴谷」艦長へ転任(後任の神通艦長は河西虎三大佐)。 11月15日、霞駆逐艦長は、磯久中佐から吹雪型駆逐艦「雷」や「白雪」艦長等を歴任した戸村清中佐に交代する(磯久は翌年2月25日より陽炎型12番艦「磯風」艦長。第4駆逐隊司令として陽炎型18番艦「舞風」沈没時に戦死)。 12月7日、第18駆逐隊司令は佐藤大佐から荒木傳大佐に交代、佐藤大佐は翌年3月31日より第4駆逐隊初代司令となる(後日、佐藤は軽巡「神通」艦長。同艦沈没時に伊崎俊二少将と共に戦死)。 1941年(昭和16年)9月1日、荒木(18駆司令)は軽巡洋艦「北上」艦長へ転任。新司令として、駆逐艦「初霜、漣、電」艦長等を歴任した宮坂義登大佐(前職、第30駆逐隊司令)が着任した。 9月15日、第二水雷戦隊司令官五藤存知少将は第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)司令官へ転出(サボ島沖海戦で「青葉」大破時に戦死)、後任の二水戦司令官は田中頼三少将となった。 第18駆逐隊司令駆逐艦は臨時移動以外「霰」に指定されていたが、9月29日より「不知火」に変更される〔『○司令驅逐艦變更 第十八驅逐隊司令ハ九月二十九日司令驅逐艦ヲ霰ヨリ不知火ニ變更セリ/第二十四驅逐隊司令ハ九月三十日司令驅逐艦ヲ一時海風ヨリ江風ニ變更セリ』〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「霞 (朝潮型駆逐艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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